昭和54年07月07日朝の御理解
御理解 第92節
「神は一体じゃによって、此方の広前へ参ったからというて、別に違うところはない。あそこではおかげを受けたけれど、ここではおかげが受けられぬというのは、守り守りの力によって神のひれいが違うのぞ。神の守りをしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは、氏子の参詣の早い遅いにかかわるぞ。」
いよいよ、これは教会長自身が力を頂きお徳を受けて、そして沢山の人が助かるような、いわゆる金光大神お取次の道が、天地金乃神様の御悲願が、教会にかけられておるのですから、その悲願が成就する事の為に、まぁ精進しなければならないという事でございます。私は、合楽の場合はいつも思うんですけれども、力もないのにお徳もないのに、いかにも 力があるかのように、またお徳を受けておるかのように、神様が先回り先回りをしておかげを下さってある。
皆様もそれを感じられる事はないでしょうか。先生の話はちょっとオーバーだなぁと感じられる事はないですか。昨日の研修の時でしたけれども、確かに合楽にはそういう働きがあるんだという事。この神愛会が四日でしたか、神愛会に丁度、一日の月次祭の日の月次祭の模様を、お説教をビデオで 見、聞きさせて頂きました。皆さんも御参拝でしたから、聞いて下さったんだと思うですけれども、丁度三十日の、いわゆる交通安全祈願大祭。それこそ、大祭なみの御参拝でもありましたし。
車などは、去年は千三百台でしたが、今年は千八百五十台からの、お祓いをさせて頂いとります。そして夜には、やはり三十日の御礼信話会。その日も、宮崎あたりは泊まって翌日の月次祭を頂こうとしておられて、泊まっておられましたから、大変賑やかな御礼信話会でした。そして朝の御祈念には、それこそ皆さんも覚えておられるでしょうけれども、どうぞ詰めて下さい、詰めて下さいと後からいう程しにいっぱいでしたね。一日の朝。そして、その日から始まった夏期信行。
それこそ一日の夏期信行には、そこの障子を取り払われねば鳴らない様に一杯でした。という話を月次祭の中でしておるんですよね。嘘じゃあないでしようか、三十日から明くる日の月次祭までの合楽で、そうした大変ないうならば賑いを見せたと言う事。もうその日の月次祭なんかは、それこそ世界のあっちこっちの国からのお供えが、エジプトあたりからまでも、お供えが来ておるという話を、お説教の中にしております。
先生方が手長から手長をこうしておる時に、丁度櫻井先生と文男先生との間い中で、 あのうメロンが一つ落ちましたですよね。それで私はその日のお説教を兎に角、こぼれる様な溢れる様なという事からヒントを得て、それこそこぼれる様なおかげを受けておると言う事を皆さんに聞いて頂きました。そしてこれが合楽教会だけではない、皆さんの一人一人が、これと同じおかげを頂いてもらわにゃならんというお話でした。皆さんが聞いておって、いかにもオーバーな様だけどもオーバーじゃあないでしようが。
三十日からずうっとお参りになっておられる方は、それが感じられただろうと思う。私が云うておる事は、本当ですけれども、つまりいつもそうではないという事。私が月次祭のお説教をさせて頂く時に、私が嘘を云わんでもです、どうぞ今朝の御理解 なんか、詰めて下さい、詰めて下さいという程しであったとか、一時の御祈念にはもう障子を取り払わんならん程しの御参拝であったとか、しかも、三十日にはそれこそ大祭並の、あれだけのお祭をさせて頂いて。
三十日の御礼信話会、そして朝の御祈念、そしてお昼の一時の御祈念、それからお月次祭と続きにずうっと繁盛に繁盛を、いうなら溢れるような、こぼれるようなおかげを受けておると言う事実を元にして話を聞いて頂いた。ね。ところがならば、そういう話しが素晴らしく、私がお話が嘘をいわんでも出来るような事実があったという事なん ですけれども、そんならその翌日の朝の御祈念の時に、なら詰めて下さい詰めて下さい、という程しではなかったでしよう。
なら御礼信話会、なる程お広前いっぱいですけれども、なら障子を開ける程しではなかったでしよう。結局お話しの材料でしかなかったという事が分かるでしょう。そこに私はいつも思うんですけれども、自分のは大体お話しにしたような御比礼が合楽に輝いておるんだけれども、それは本当なものではない。力はないけれども、神様が何とはなしにです、そういうおかげを受けておるかのように。
いうなら出けておらんけれども、出けたかのようにおかげを下さっておるんだなあと言う事を感じます。だから私の信心は、いうなら天ぷらです。みかけばっかり。所がです、神様が見かけぼうぶらの私ですけれども、内容があるかのように、出けたかのように、それに顔を立てて下さるという事は何故でしょう。どこにその元があるのでしょう。と言う事になるわけです。
昨日でもそうでした。私が丁度、湯川先生のお話を、読んだばっかりのお話を皆さんに聞いて頂いた。お弟子である湯川誠一先生が、一晩中御祈念をなさった。それを湯川安太郎先生が、大先生がそれを知っておられた。そして明くる日、誠一お前は夕べ一晩中そのお広前で御祈念したな、とおしゃった。はい。何んの為にあんな事をするか。どうして湯川にすがらんか、頼まんかといわれたという話しを致しましたよね。
そこでです、なら今度の夏期信行というものが、私がその芯にしたいというのは、教主金光様が三日から入院なさいました。目の手術をなさるのです。一ケ月間の予定だそうです。それで、今度の夏期信行は、これにかけると皆さんに聞いてもらったけれども、十人余りの方が、教主金光様、教主金光様のお初穂をなさってお願をなさった。そこで私しが昨日、申しました。
私と修行生との間の中に、あんただん夏期信行には教主金光様の事はお願いしよるか、と申しましたら、はぁ私共なりにしよります。私共なりではいかん。何故大坪総一郎にすがらんかと言う様に、昨日聞いて頂いたでしょう。皆さんも聞いて、なる程と思われたでしょう。なる程、自分なりなら自分なりの事。親先生のお徳におすがれば、それだけのおかげが頂 けるという事が分かられた。そうしたらどうですか、昨日の一時の御祈念には沢山の人が、教主金光様のお初穂を奉っております。
こげん打てば響くごというならば、はっとそれに応じて下さると言う事は、こんなに私としてはこんな嬉しい事はないですけれども、実は力もない徳もないのに、皆さんがその事を実際の上に表わして下さるという事を、昨日、神様にね御礼申させて頂いとりましたら、耳ヘンに公という字を書いて心という字、聡子の『聡』という字ですね。耳を書いて公そして心とある。私はね信心にはこういう所がなからにゃいかんと思う。
親先生が右といわれたら、はっと右になる。左といったら、すぐそれに乗ってくる。そ れには、私には力はないけれども、その時、たまたま昨日湯川安太郎先生のお話を私しが読んでおったから、それを真似して皆さんに聞いて頂いた。いうなら、玉水の初代の大先生のお話を、いうならばそのまま皆さんに聞いて頂いた。あんた達の祈りでは、あんた達なりのものだ。なぜ大坪総一郎にすがらんか、と私と修行生のやりとりの話しをさせて頂いたら、皆さんがそれに応えて。
それこそ「応」と応えて、昨日の一時の御祈念が出けた。ただ心の中で、お願いしよりますではなくて、お供えはお供えをさせて貰うて、そして 教主金光様の事をお祈りされた。私の信心じゃあない。いうならば、玉水の大先生のお話をただ受け売りしただけであるけれども、皆さんはそれにつうっと乗ってこられた。ね。信心とは、それなんです。だから、いかにもですねいうなら耳という字に公の心、いうならば聞いてすぐ分かるという。耳で聞いてすぐ公というのは銘々の自分の事だけではない。
私が総代さん達に、言うんですけれども、本当にここで総代さん達が、一生懸命で合楽教会大発展の事を、信者一同の事を、一生懸命で願われる。だから先日、高橋さんにそのことを話した事でした。あの事があれ程、一生懸命願われておるのだから、もう三福寿司の事やら、高橋の事やら願わんでん、いうなら合楽の信者一同の中に入っておるから、もう他のお届けは要らないよというて申しました位に、総代さんがここでお届けなさるのは一生懸命です。
私も又御取次ぎさせて頂くのに、一生懸命。ね。だから本当なものじゃあない、出けてないけれども、その一生懸命に、それにあのう、乗ってくるというかね。「口ばっかりの先生の所に、聞くばっかりの信者」と云うようなご理解を頂いた事がある。ここの場合は、私がいうなら口ばっかりのような私ですけれども、皆さんがそれに乗って下さるから、いかにも口ばっかりじゃあない、本当なものが親先生の内容にあると言う様に、皆さんが見て下さってあるから。
いかにも中身はないけど、あるかのように神様がお取り立て下さって、今日の合楽の御比礼があるという事なのです。確かにね、いうならば話を聞いて、助かる道といわれるから、いうなら耳から入ったそのことが、成る程と合点がいったら、それを実行にさっと移してゆくという所に、お道の信心の進展があると思う。お育てを頂くとは、そういう事だと思います。ね。そしてです、成る程私の信心は天婦羅ですけれども、中身は無いですけれども。本当なものではないですけれども。
神様が、本当なものかのようにして、おかげを下さるという事は、もうこれは寝ても覚めても、いつでも、もう一分づつでもいいから、本当なものになろうと精進しておるという事だけなんです。これだけは、絶対なんです。間違いないです。おそらく、死ぬまでこれは続ける事でしょう。ね。だから、一分か一厘だから、大した事は無いのだけれども、神様がもう一寸、もう一尺も出けたかのようにして、おかげを下さっておるのではないでしょうか。
守り守りの力というのは、力があるわけじゃないけれども、ね、力があるかのようにおかげを下さる。為には、その力を本気で頂こうと、一分でも一厘づつでも進む姿勢が要る。皆さんでもそうです。「信心も出けませんのに、おかげを頂いて」というて、いつも同じ事では出けんて。一分でも一厘づつでも、本当なものになろうとする精進がなされなければだめだ。と言う事になります。そこには、信心が出けたかのようにしておかげを下さるという事になるのですよね。
どうぞ。